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世界遺産 富士山

構成資産・構成要素一覧

世界遺産「富士山」には、25の構成資産があり、「信仰の対象」や「芸術の源泉」という、2つの側面から、4つに分類することができます。
1つめは、「信仰の対象」となった山域、そして、登山道です。
2つめは、富士山への信仰に由来する、山麓の神社や、「御師(おし)」と呼ばれる人々の住宅です。
3つめは、信仰心をもって富士登山に望む人々が巡礼や修業を行った、溶岩樹型や湖、湧水地、滝、海浜などです。
最後は、富士山の展望景観です。富士を望む美しい風景は、多くの芸術の源泉となりました。

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1-1 山頂の信仰遺跡群

山頂には、富士山本宮浅間大社の末社である久須志神社(薬師堂)をはじめ、山頂の雪解け水がしみ出た井戸「金明水」「銀明水」など、「信仰の対象」としての富士山の価値を物語る多くの遺跡群が存在します。火口を囲む峰々を仏教の曼荼羅に描かれた世界観に見立て「八葉(お鉢)」と呼んで、周回する巡拝路などがあり、富士山信仰における重要な場となっています。

1-2 大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)

富士山南西麓の富士山本宮浅間大社を起点に、村山浅間神社を経て、山頂南側へ達する登山道。平安時代の僧で村山修験の祖「末代上人」が修行の場としたことで、鎌倉時代以降は修験者の利用で賑わいました。江戸時代には「村山三坊」と呼ばれた道者坊(宿坊)が、富士山興法寺(現在の村山浅間神社)や登山道を管理していました。古くから庶民の登拝にも利用され、『絹本著色富士曼荼羅図』などの多くの絵図に描かれています。

1-3 須山口登山道(現御殿場口登山道)

富士山南東麓の須山浅間神社を起点に、山頂南東部へ達する登山道。通称「南口」。一合目付近には風穴の「須山御胎内」があり、登山道沿いには修験者の行場、山頂には古くから霊水とされる泉「銀明水」があります。江戸時代中期の1707年、登山道の間近で宝永大噴火が発生し、壊滅的な被害を受けました。その後、登山道全体が復興したのは1780年のことでした。現在に至るまで、最も経路が変化・変更されてきた登山道です。

1-4 須走口登山道

富士山東麓の東口本宮冨士浅間神社を起点に、須走口本八合目で吉田口登山道と合流した後、山頂東部へ達する登山道。通称「東口」。七合目からは室町時代1384年の銘を持つ懸仏(銅などの円板に仏像を鋳たもの)が出土しています。須山口と同じく、宝永大噴火で壊滅しましたが、江戸幕府の支援で翌年には復興を果たしました。最盛期は江戸時代後期で、富士山信仰の「ご縁年」に当たる1800年には、23,700人もの道者が訪れました。

1-5 吉田口登山道

富士山北麓の北口本宮冨士浅間神社を起点に、山頂東部へ達する登山道。通称「北口」。室町時代には道が開かれ、その後、江戸時代中期の1733年、富士講中興の祖「食行身禄」が七合五勺(現在の八合目)で、すべてのものを救済するために自ら即身仏になる究極の修行(入定)をする際、吉田口を登山本道と定め、その後富士講の人々が多く利用しました。今も一合目から山頂まで、登山道全体に馬返、経ヶ岳、烏帽子岩など数多くの史跡が残っています。

1-6 北口本宮冨士浅間神社

上吉田の金鳥居をくぐり御師町をぬけると、 今も地元の人々に親しまれる「せんげんさん」に至ります。起源は、日本武尊が東方遠征にて富士山を遥拝し、「富士の神山は北方から登拝せよ」とお言葉され、祠を建てたことに由来すると伝わります。現存する最古の「東宮本殿」は、北条義時が鎌倉時代1233年に創建し、武田信玄が戦国時代1561年に再建しました。樹齢千年の御神木「冨士太郎杉」や、吉田口登山道の起点となる登山門などもあります。

1-7 西湖

山々と青木ヶ原樹海に囲まれ、淡い藍色の湖水をたたえる西湖。古くは「西ノ海」と呼ばれていました。湖水は、富士山に降った雨が地下水となり、湖底から湧き出したものです。1940年頃に絶滅したとされる秋田県田沢湖の固有種クニマスが、2010年の調査で生息していることが確認されました。1981年には、湖底から鎌倉時代後期頃の祭事用とされる丸木舟が発見されました。富士講信者が山麓の8つの湖沼を巡って水行を行う「内八海巡り」の巡拝地の一つです。

1-8 精進湖

富士五湖の中で最も小さく、静かな森に囲まれた緑色の湖水の精進湖。明治時代に、英国人ハリー・スチュワート・ホイットウォーズ(日本名は星野芳春)が、世界一美しい「ジャパン・ショージ」として海外へ広め、多くの外国人の知るところになりました。湖面越しに見る富士山は、大室山を抱えた「子抱き富士」と呼ばれる撮影の名所になっています。富士講信者が山麓の8つの湖沼を巡って水行を行う「内八海巡り」の巡拝地の一つです。

1-9 本栖湖

富士五湖の中で最も深く透明度の高い澄んだ湖水の本栖湖。湖面越しに見た景観は、生涯にわたり富士山を撮影した写真家・岡田紅陽による逆さ富士『湖畔の春』で知られるほか、五千円札や千円札紙幣の図案にも描かれた名勝です。富士講信者が山麓の8つの湖沼を巡って水行を行う「内八海巡り」の巡拝地の一つです。湖底からは古墳時代を中心とした土器が出土しており、古代の集落の存在が伺い知れます。

2 富士山本宮浅間大社

富士山の八合目以上を境内地とし、南麓の富士宮にある「本宮」と、山頂に建つ「奥宮」との二宮から成っています。駿河一の神社として名高く、全国の浅間神社の総本宮として知られています。創建は、平安時代の806年、坂上田村麻呂により「本宮」が創建され、現在の山宮浅間神社にあった「山宮」の遷座に由来すると伝わります。江戸時代1604年、徳川家康によって現在の社殿が造営されました。大宮・村山口登山道の起点です。

3 山宮浅間神社

歴史上、最初に富士山信仰の大神が祀られたと伝わる場所が現在の山宮浅間神社です。その後、富士山本宮浅間大社に遷されたため「山宮」となりましたが、「本宮」に先んじた社として、全国1,300余の浅間神社の中で最も古いとされています。境内に社殿はなく、御神木と遥拝所による祭祀遺跡空間が広がっています。遥拝所は、溶岩流の先端部にあたり、富士山の方角を向いた石列が配置され、溶岩を用いた石塁が周囲にめぐらされています。

4 村山浅間神社

富士山中腹の村山登山道の要所にあった創建時の村山浅間神社が、飛鳥時代末期の701年に現在地に遷宮したと伝えられています。その後、修験の霊山として富士山を開いた平安時代の僧「末代上人」が御堂を構え、富士山興法寺として発展しました。多くの宿坊があり、修験者の信仰の中心地として、神仏習合の地として栄えましたが、明治時代に入り、富士山興法寺は廃され、現在の興法寺大日堂と、村山浅間神社社殿とが残っています。

5 須山浅間神社

富士山南東麓、須山口登山道の起点となる神社です。遺物からは、遅くとも室町時代の1524年には存在していたことが推測されます。江戸時代の1707年に起きた宝永大噴火から復興した後も、東南麓からの登拝に重要な役割を担っていましたが、 明治時代に入り、1883年に御殿場口登山道が拓かれて以降、須山口登山道の利用者は次第に減少しました。樹齢4〜500年のスギの巨木が林立し、神聖な雰囲気に包まれています。

6 冨士浅間神社(須走浅間神社)

平安時代の802年、富士山東麓の噴火を鎮めるため斎場を設け、鎮火祭が行われたことを起源に、同地に807年に創建されました。江戸時代には、須走口登山道の本宮として、村の宿場とともに栄えましたが、1707年の宝永大噴火によって本殿は壊滅、1718年に再建を果たしました。当時の遺構のままの社殿や神門などの文化財が点在し、参道沿いに走る水路が境内の入口で滝となる鎮守の杜は、今も地域の人々に親しまれています。

7 河口浅間神社

平安時代の865年、貞観大噴火の翌年に浅間神を祀ったのが始まりとされます。社殿前の石祠「美麗(ヒイラ)石)」は浅間神を祀った最古の遺物とされるほか、境内には樹齢1,200年を超える「七本杉」と呼ばれる御神木が立ち並んでいます。毎年7月に行われる鎮火祭には、古式にそって童女が舞う「河口の稚児舞」が奉納されます。奥山には、道者が禊を行った「母の白滝」と「母の白滝神社」が鎮座し、今も富士山信仰の歴史を物語っています。

8 冨士御室浅間神社

富士山を背にした「本宮」、河口湖を背にした「里宮」が、ひとつの境内に建てられており、「大鳥居」と「里宮」を結んだ方角に富士山を望むことができます。創建時の「本宮」は、飛鳥時代末期の699年に藤原義忠によって富士山二合目に祀られましたが、噴火や自然の厳しさからくずれかけ、保存を目的として昭和時代の1974年に、現在地に移されました。戦国大名武田家三代の祈願所とされ、信玄公自筆の安産祈願文や自刻の座像が奉納されています。

御師住宅(旧外川家住宅 9・小佐野家住宅 10)

御師は、富士山に登拝する富士講信者の食事や宿泊などすべての世話と、富士山信仰の祈祷や布教を生業としていました。御師住宅は、御師の家であり宿坊です。富士吉田の街には、最盛期で八十六軒もの御師住宅が連なっていたそうです。江戸時代中期1768年に建てられた旧外川家住宅の母屋は、保存状況の良い貴重な最古の建物。江戸時代後期1861年に再建された小佐野家住宅は、富士講最盛期の建物の間取りを現在に伝えています。

11 山中湖

富士五湖の中で最大、湖面の標高は最も高く980.5m、国内3位の標高にあります。一方、水深は最も浅く、厳寒期には全面結氷することも。山中湖を水源とする桂川(中下流の神奈川県では相模川)は、相模湖・津久井湖を経て、太平洋に注いでいます。日本のマリモ分布の南限となる「フジマリモ」が生育しています。夏の夜には湖面越しに、山頂を目指す登山者の灯列を見ることができるでしょう。富士講信者が山麓の8つの湖沼を巡って水行を行う「内八海巡り」の巡拝地の一つです。

12 河口湖

富士五湖の中で最長の湖岸線を持ち、湖面の標高が最も低い河口湖には、天然の流出口(河口湖を水源とする河川)はありません。湖面の中央には弁財天を祀る「鵜の島」という小島があり、縄文〜弥生時代の土器などが出土しています。先人の句碑が集まる湖畔の「産屋ヶ崎」は、富士山と桜と湖が織りなす日本の原風景です。富士講信者が山麓の8つの湖沼を巡って水行を行う「内八海巡り」の巡拝地の一つです。

忍野八海(出口池13・ お釜池14・ 底抜池15・ 銚子池16 ・湧池17・ 濁池18・鏡池19・ 菖蒲池20)

忍野八海は、富士山の伏流水を水源とする八つの湧水池からなっています。「富士根元八湖」と呼ばれ、この八つの池を巡る巡拝では、富士山への登拝を行う富士講信者たちが水垢離(穢れを洗い落とす水行)を行いました。絶え間なく湧き出る冷たく澄んだ水は、富士山に降る雨が地下水となって広がっていることを示しており、裾野の村々の生活や生業に豊かな恵みをもたらしてきました。趣きのある自然の水景は、多くの人々を魅了しています。

21 船津胎内樹型

河口湖フィールドセンターにある船津胎内神社が入口の船津胎内樹型は、溶岩流で倒れた大樹が焼けてできた空洞のことです。洞穴の壁は肋骨のよう、天井は鍾乳石状、奇妙なしわ模様で覆われ、まるで母体の臓器の中のようです。そこは「御胎内」と呼ばれる、生まれ変わりを体験する霊場です。約20mもの数本の樹型が組み合わさった洞穴は全長約70m。富士講信者が登頂前に身を清める霊場であり、人々の安産祈願の地ともなっています。

22 吉田胎内樹型

平安時代の937年の噴火で流出した剣丸尾溶岩流の東端にできた洞穴です。明治時代の1892年に富士講信者によって発見されました。1本の横穴樹型・3本の井型状樹型・小さな円筒状横穴樹型から成っています。横穴樹型には樹木の木肌がはっきりと残り、底面には溶岩石筍を見ることもできます。富士山を訪れる富士講信者や御師たちによって守られてきました。内部は非公開ですが、年に一度だけ「吉田胎内祭」が開かれます。

23 人穴富士講遺跡

富士山西麓に位置する人穴浅間神社(明治以前は光きゅう寺大日堂)には、富士講の開祖とされる長谷川角行が洞内で千日間立ち続ける修行を行ったとされる溶岩洞穴「人穴」があります。全長約83m。浅間大神の啓示を得た角行は、やがてここで入滅します。周囲には富士講信者が立てた約230基もの碑塔が残されています。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、洞穴内を探検した武士が霊的な体験をしたことが記されています。

24 白糸ノ滝

富士山の伏流水を源流とする滝です。川の水と溶岩断層から湧水した水が合わさり、幅約200m高さ20mの絶壁から、白い絹糸をかけたように流れ落ちます。富士の巻狩りの際に立ち寄った源頼朝は「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」と詠みました。滝の上には、頼朝が髪のほつれを直したとする湧水「お鬢水」があり、富士講信者の霊場のひとつとなっているほか、付近には豪快な「音止めの滝」もあります。

25 三保松原

駿河湾に突き出た三保半島東岸に広がる浜辺の景勝地です。松林に青い海、打ち寄せる白波、遠景に富士山を仰ぐ風景はまるで絵画を見るようです。その昔、天女が舞い降り水浴びしていると、枝にかけた衣を漁師が取りあげた、すると天女は衣と引き換えに美しい舞を披露したという「羽衣伝説」、謡曲「羽衣」の舞台として知られています。古くは万葉集の歌に詠まれ、江戸時代の浮世絵をはじめ、数多くの絵画や文学作品の題材となっています。